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starcluster

April 26, 2023

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『日本語』と私

最近、誰もが「情熱を見つける」ことについて話しています。しかし、実際に何かに情熱を注ぐということはどういうことなのでしょうか。現在、私たちは一般に「情熱」を、激しい愛・欲求・熱中・熱狂という意味だと理解しています。ミュージシャンなら、音楽が大好きだからそれが自分の情熱だ、と言うかもしれません。しかし、それ以上に重要なのは、音楽が人生に意味を与えるということです。それがなぜ生活に意味をもたらすのでしょうか。それは、音楽を楽しみ感謝するという理由だけではおそらくないはずです。リズムやメロディーが魂を揺さぶるのかもしれません。音楽は言語のようなものかもしれません。言葉を話さなくても、音楽という言語で何時間も会話できるのです。また、音楽は大切な思い出と結びついていることもあります。ですから、もし音楽に情熱を注いでいるのなら、それはおそらく「楽しみ」や「熱中」よりも深いものでしょう。おそらくこうした言葉では、音楽への愛の深さや、人生に音楽を必要としていることを捉えきれないのです。
情熱という言葉は、「苦しむ」という意味のラテン語patiに由来しています。これは興味深いと思いませんか? 情熱という概念は元々、苦しみと混在していました。どちらか一方だけというわけにはいかないのです。もちろん、言葉は時代とともに変化し進化していくものです。しかし私にとって、情熱の本来の意味は、本質的な真理を指し示します。すなわち、私たちが何かに情熱を注ぐとき、その何かが必ずしも楽しいことやうれしいことだとはかぎらないということです。それは、自分にとってとても大切なことだからこそ、人生の中に持ち続けるのであり、気分が良くなるからとかやりたくなるからというような理由だけではありません。気分が乗らない日もあります。モチベーションが下がることもあります。活力は時間とともに変化します。どれもすべて完全に正常であり予期されることです。しかし自分にとって大切なことなら、とにかくやり続けます。大事なことだから苦しみも気にしないし、達成のためには犠牲を払うこともあります。だから、苦しくても辞めたりしないのです。それは「情熱」ということではないのでしょうか。
  これは、まさに私が日本語に対して感じていることです。私にとって日本語はとても難しく、何が何でも完成させたいパズルのようなものです。まるで、果てしなく続く坂を苦労しながら上っていると、越えるべき偽の頂上あるいは峠がいつまでも終わらないような、そんな感じです。ある日は「こんなの絶対理解できない」と思うこともあれば、別の日には日本語の文章を読んでいて「読める/わかる」と実感することもあります。
  ブルガリア語や英語やドイツ語は、見知らぬ人と話すような感じ、あるいは自分の口で話して自分の耳で聞いているような感じです。一方で日本語は、好きな人と話しているような、あるいは心で聞いて考えているような感じです。他の何ものにも代えがたいほど、私の心に響くものです。語彙や言い回し。言葉の裏に隠された不確実性や感情。漢字の美しさ。言葉の響き。そのすべてに魅了されます。これは日本語の妙味と言うやつではないのでしょうか。
  私の感情はすべて、日本語の文脈の中では何らかの形で強くなります。日本語が上手になればなるほど、この感情が強くなります。日本語はまるで私の心の言語であるかのように感じます。


結論のアイディア何かありますか?

Corrections

それは、おそらく音楽を楽しみ感謝するという理由だけではおそらくないはずです。

おそらくこうした言葉では、音楽への愛の深さや、人生に音楽を必要としていることを捉えきれないのです。

この文章は正しいですが、「おそらく」が何度も続いているので、ここは「こうした言葉では、音楽への愛の深さや、人生に音楽を必要としていることを捉えきれないのではないでしょうか。」という表現に変えてもいいかと思います。疑問形ですが、強い断定を避け、自分の意見を述べる言い方です。

すなわち、私たちが何かに情熱を注ぐとき、その何かが必ずしも楽しいことやうれしいことだとはかぎらないということです。

ひらがなが続くので、読み手が目視ですぐ理解できるよう漢字にしました。

それは、自分にとってとても大切なことだからこそ、人生の中に持ち続けるのであり、気分が良くなるからとかやりたくなるからというような理由だけではありません。

読点をどこで打つかは人によるのですが、ここで一度打った方が読み手が目視で文の固まりを拾いやすいかと思いました。

大事なことだから苦しみも気にしないし、達成のためには犠牲を払うこともあります。

前の文章が「気にしない」という否定形なので、「達成のためには犠牲を払うことも厭(いと)わない。」と同じく否定形を使うとしっくりくるかなと思いました。

これは日本語の妙味と言うやつではないのでしょうか。

「やつ」はタメ語の類です。今まで丁寧な文章で書き綴ってきて、突然タメ語が出てくると合わない気がしますので、ここは「と言うものではない〜」が合うかと思います。

Feedback

前世は日本人確定ですね(^^)
文章は修正する箇所はありませんでしたが、感覚的なところだけコメントしました。参考になれば幸いです。

ですから、もし音楽に情熱を注いでいるのなら、それはおそらく「楽しみ」や「熱中」よりも深いものでしょう。


おそらくこうした言葉では、音楽への愛の深さや、人生に音楽を必要としていることを捉えきれないのです。


おそらくこうした言葉では、音楽への愛の深さや、人生に音楽を必要としていることを捉えきれないのです。

この文章は正しいですが、「おそらく」が何度も続いているので、ここは「こうした言葉では、音楽への愛の深さや、人生に音楽を必要としていることを捉えきれないのではないでしょうか。」という表現に変えてもいいかと思います。疑問形ですが、強い断定を避け、自分の意見を述べる言い方です。

情熱という言葉は、「苦しむ」という意味のラテン語patiに由来しています。


これは興味深いと思いませんか?


情熱という概念は元々、苦しみと混在していました。


どちらか一方だけというわけにはいかないのです。


もちろん、言葉は時代とともに変化し進化していくものです。


しかし私にとって、情熱の本来の意味は、本質的な真理を指し示します。


すなわち、私たちが何かに情熱を注ぐとき、その何かが必ずしも楽しいことやうれしいことだとはかぎらないということです。


すなわち、私たちが何かに情熱を注ぐとき、その何かが必ずしも楽しいことやうれしいことだとはかぎらないということです。

ひらがなが続くので、読み手が目視ですぐ理解できるよう漢字にしました。

それは、自分にとってとても大切なことだからこそ、人生の中に持ち続けるのであり、気分が良くなるからとかやりたくなるからというような理由だけではありません。


それは、自分にとってとても大切なことだからこそ、人生の中に持ち続けるのであり、気分が良くなるからとかやりたくなるからというような理由だけではありません。

読点をどこで打つかは人によるのですが、ここで一度打った方が読み手が目視で文の固まりを拾いやすいかと思いました。

気分が乗らない日もあります。


モチベーションが下がることもあります。


活力は時間とともに変化します。


どれもすべて完全に正常であり予期されることです。


しかし自分にとって大切なことなら、とにかくやり続けます。


大事なことだから苦しみも気にしないし、達成のためには犠牲を払うこともあります。


大事なことだから苦しみも気にしないし、達成のためには犠牲を払うこともあります。

前の文章が「気にしない」という否定形なので、「達成のためには犠牲を払うことも厭(いと)わない。」と同じく否定形を使うとしっくりくるかなと思いました。

だから、苦しくても辞めたりしないのです。


それは「情熱」ということではないのでしょうか。


これは、まさに私が日本語に対して感じていることです。


私にとって日本語はとても難しく、何が何でも完成させたいパズルのようなものです。


まるで、果てしなく続く坂を苦労しながら上っていると、越えるべき偽の頂上あるいは峠がいつまでも終わらないような、そんな感じです。


ある日は「こんなの絶対理解できない」と思うこともあれば、別の日には日本語の文章を読んでいて「読める/わかる」と実感することもあります。


ブルガリア語や英語やドイツ語は、見知らぬ人と話すような感じ、あるいは自分の口で話して自分の耳で聞いているような感じです。


一方で日本語は、好きな人と話しているような、あるいは心で聞いて考えているような感じです。


他の何ものにも代えがたいほど、私の心に響くものです。


語彙や言い回し。


言葉の裏に隠された不確実性や感情。


漢字の美しさ。


言葉の響き。


そのすべてに魅了されます。


これは日本語の妙味と言うやつではないのでしょうか。


これは日本語の妙味と言うやつではないのでしょうか。

「やつ」はタメ語の類です。今まで丁寧な文章で書き綴ってきて、突然タメ語が出てくると合わない気がしますので、ここは「と言うものではない〜」が合うかと思います。

しかし、それ以上に重要なのは、音楽が人生に意味を与えるということです。


言葉を話さなくても、音楽という言語で何時間も会話できるのです。


また、音楽は大切な思い出と結びついていることもあります。


それがなぜ生活に意味をもたらすのでしょうか。


それは、音楽を楽しみ感謝するという理由だけではおそらくないはずです。


それは、おそらく音楽を楽しみ感謝するという理由だけではおそらくないはずです。

リズムやメロディーが魂を揺さぶるのかもしれません。


音楽は言語のようなものかもしれません。


『日本語』と私


最近、誰もが「情熱を見つける」ことについて話しています。


しかし、実際に何かに情熱を注ぐということはどういうことなのでしょうか。


現在、私たちは一般に「情熱」を、激しい愛・欲求・熱中・熱狂という意味だと理解しています。


ミュージシャンなら、音楽が大好きだからそれが自分の情熱だ、と言うかもしれません。


私の感情はすべて、日本語の文脈の中では何らかの形で強くなります。


日本語が上手になればなるほど、この感情が強くなります。


日本語はまるで私の心の言語であるかのように感じます。


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